納豆と豆腐

 

 日本人は、昔から肉や魚などの動物性蛋白質を、摂取していなかった。敬虔なる仏教徒だからってよりも、つまりは貧乏だったんだよな。

縄文人達は、まだ農業が普及してなかったので、みんなで協力してマンモスなんか沼に追い込んで殺してたんだろうが、田や畑で食料が手にいるようになると、同じ労働力で、多くの食料を生産することが出来るようになった。

だから、土地について言えば、非効率的な使い方をする牧畜よりも農業、又、貯蔵について言えば、すぐに腐敗する魚よりも、米や麦の方がいいし、魚が大漁だったにしても、消費者の所迄持って来るには、干したり、煮たり、塩漬けにしたり色々と手間がかかり、それが価格に跳ね返る。

だからどうしても主食に頼り勝ちで、おかず、つまり副食については、上は天皇や将軍、下は庶民まで質素な物だったらしい。

でも、その中で、蛋白質、これは栄養の中できわめて大切な物なのだが、動物性蛋白質を摂らないで、栄養失調にならずに済んだのだろうか。

そうだね。知ってる人大勢いるだろうが、動物性じゃなくって、植物性の蛋白質を摂取してたんだ。これも知ってるね。その通り、大豆だけれど、大豆は畑の肉なんて言われる程、植物性蛋白質を多く含んでいる。

そうして、直接に大豆を食べる以外に、加工していろいろの物にしている。そうだ。その通り、醤油、納豆、豆腐、味噌、もやしなどだね。

 

 さてその大豆の加工品の中で、醤油と味噌ともやしはさておき、納豆と豆腐に関わる話がある。そもそも納豆、そして豆腐とは如何なる物なるや。

君達の知ってる納豆とは、大豆をゆでて柔らかくした物に、納豆菌という微生物を混ぜ、その働きで大豆を柔らかく食べやすくしたものであり、一見すると、あたかも豆が腐っているようにも見える。

つまり納豆とは、豆が腐ったように見えるものだ。    

反対に、豆腐とは、大豆をゆでてすりつぶし、その中の栄養分を絞り出した、つまり豆乳ににがりという薬を少し入れて、箱の中に納めて、固めた物なのである。

つまり豆腐とは、豆乳を箱に納めて、固めたものだ。

と言うことは、つまり、納豆が豆腐で、豆腐が納豆。(笑声)

中国からか朝鮮からか輸入した時に、どっちが豆腐でどっちが納豆だか混乱してしまった。エーイ、めんどくせえ。こっちを納豆、そっちを豆腐にしちゃえ。(笑声)  なーんて無責任に決めちゃったのかも知れないが、これは一つの説。

中国料理の中に、君達も知ってる「杏仁豆腐(あんにんとうふ)」なんてのがあるから、この馬鹿馬鹿しい間違いやらかしたのは中国人だろう。

 

 同じ様なのがいろいろある。「泊まる」と「晒す」がそうだ。

先生が子供の時に、「泊まる」と言うのは水を表す「さんずい」に白だから、港に白い客船が停泊してるような感じがした。

「晒す」は西に日だから、西窓のカーテンが強い西日に毎日晒されて色が落ちてしまった、なんて感じで受け取っていたが、先生様のような大天才でも騙されてしまった。こりゃあ大間違いのコンコンチキ。(笑声)

「泊」という字はさんずいに白、水と白。つまり、薬の入ってる水に布をひたして白くする。

作ったばかりの物は、原料の色が残っていて、あまり良いとはいえない。そこでさらして、きれいさっぱりした白に仕上げる。

そもそも大昔には、ロマンチックな白い客船なんか、ある訳無いんだもんな。(笑声)

一方、「晒」はすぐに分かる。そうだな。その通り、日が西に行ってやがて日が暮れるから、宿屋を探して泊まろう。これも大昔にはカーテンなんか無いもんな。(笑声)

「泊」と「晒」の入れ違いも、いつだか分からない。ぼんくらな奴は、中国か朝鮮か日本かどこだか分からないが、明らかに、日本にぼんくらがいたと言うのもある。

 

 「当然」と「あたりまえ」、この二つでどちらが古い言葉か考えてみよう。どっちかな。

「当然」の方が古いという意見が多いな。どんな訳で「当然」の方が古いと思ったか、聞いてみよう。

何? 「かっこいいから」(笑声)

成る程ねえ。話してるときに、「そりゃ君、あたりまえだよ」と言うよりも、「そりゃ君、当然だよ」と言った方が何となく高尚でインテリっぽいな。(笑声)

ほかには? 「何となく昔っぽいから」

そうだよなあ。時代劇なんかで、裃(かみしも)を付けた侍が「当然の事でござる」と言うのと「あたりまえの事でござる」なんてんじゃ、貫禄が違うよな。

サテ、君達が感じたように、「当然」が先で「あたりまえ」が後なんだ。「当然」が何故「あたりまえ」と言われるようになったかと言うと、ここに、二人のぼんくらが登場する。藤子不二雄じゃないが、ぼんくらAとぼんくらBだ。(笑声)

 

 昔は「当然」しか、なかった。「当然」と言うのは「まさに、しかり」(全くその通りである)

所が、書き物をしていて、この「当然」という字を忘れちゃった奴がいる。こいつが、ぼんくらAだ。

どう書いたっけなあ。トーゼン、トーゼンと。トーは「当」と書くのは思い出した。でも、ゼンが出てこない。ゼンゼンゼンゼンと、いいや、これだってゼンと読めるんだ。とりあえず「前」と書いとけ。「当前」でいいや。(笑声)

ぼんくらAが「当然」と書く所を「当前」と書いてしまったが、まあ、高尚なインテリでなくても、普通の人間だったら、読むときに、ナンダこいつは「当然」と書く所を「当前」なんて間違えて書いてやがる。これを見破った俺の方が、こいつよりも、はるかに高尚なインテリだぞ。わっはっは、なんて優越感に浸れる。(笑声)

だったら、まだいいんだけどな。ここにぼんくらBが登場すると、話が変わってくる。そうだ。その通り「当前」を「とうぜん」と読まないで「あたりまえ」と読んじゃったんだ。(笑声)  これが始まりで、「あたりまえ」と言う言葉が「あたりまえ」に通用するようになった。(笑声)  つまり、ぼんくらAとぼんくらBの共同作業で「あたりまえ」が出来たって訳だ。

 

 このほかに、日本語の中で変なことがあったのは、「松虫」と「鈴虫」の入れ違いなんてのがある。平安時代、紫式部の頃は、今の「松虫」が「鈴虫」で、「鈴虫」が「松虫」、つまりチンチロリンと鳴くのが「鈴虫」で、リーンリーンと鳴くのが「松虫」だったそうだ。当時の文献を見ると分かるらしい。つまり、現代語訳すれば

秋深まり、月ますます青く、庭では「鈴虫」がチンチロリンと鳴き、裏の松林では「松虫」がリーンリーンと鳴いている。

なんて文章があるんだろう。もっとも現代の人間は一生の間「松虫」も「鈴虫」も聞かないで終わっちゃう者が大部分だろうから、「松虫」が「鈴虫」だろうと、「鈴虫」が「松虫」だろうと、みんなには関係ないやな。

「石英」と「水晶」も反対だと言われる。これは、犯人は分かってるらしい。(笑声) 江戸時代に、時の大学者の貝原益軒が勘違いをしたと言うことだ。上手の手から水がこぼれるという例かな。

 

 所で、お母さんに「お豆腐買ってきて」と頼まれて、納豆を買ってきて、

「これが本当の豆腐だ。先生が教えてくれたんだ。これはトウゼンの事だ!!」

なんて威張ったりなんかすれば、「じゃあ、本当の納豆買ってきて」と、二回もお使いにやらされてしまうぞ。(笑声)

 

<脱線千一夜 第70話>


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