とても運のいい人の話をしよう。かりにA子さんとする。

今を去る何十年かの昔、ある暑い夏の日のことであった。そこは瀬戸内海のある島、あんまり暑いので、氷アズキを何杯も食べちゃった。

A子さん、若奥さんだけど多分20歳前で、みんなと同じ、食い意地が張ってたんだろうな。何杯食べたか聞かなかったけど、とにかく、翌日に猛烈な腹痛に襲われた。

マ、ここ迄は、A子さん、身から出た錆とは言え、運は悪いな。

その日は前から婦人会の勤労奉仕の日なんだ。今で言やあボランティア活動ってんだな。何やるんだか聞き損なったけど。

腹が痛くてそんなとこに行けない。そこでA子さんは婦人会の幹部の人に、こんな訳なので欠席させて下さいと言った。

 

 所で、このA子さんの住んでいた所は、こないだ話した海軍兵学校のある江田島だ。江田島は昔は海軍の施設が沢山あったらしい。海軍の学校、寄宿舎、将校や士官の家族の為の官舎など。

だからA子さんの住んでいる海軍の官舎の婦人会ってのは、海軍の将校や士官の奥さん達だ。

そこでは、ご主人の階級で序列が決まってる。会長や副会長は大将夫人、あと中将夫人、少将夫人、大佐夫人等々と偉い順が決まっていて、A子さんは結婚したばかり、ご主人のAさんはまだ若いから、相撲で言やあ「序の口」ってなもんだろう。品がない言葉で言やあ「フンドシカツギ」だ。(笑声)

だからA子さんは自分の親以上の歳の、大将夫人や中将夫人達の使いっ走りをやらされてたんだな。

その、ぺーぺーの下っ端のA子さんが、こともあろうに氷アズキを食べ過ぎて、勤労奉仕に行けないってんだから、うんと怒られた。

お国の為に兵隊さん達は命を捨ててアメリカ軍と戦ってるってのに、事もあろうに氷アズキの食べ過ぎとは何ですか! そう言う人を非国民って言うんですよ。行けないんなら、罰金払いなさい。罰金として十円払いなさいっ!

なんて言われて十円払わされたそうだ。大枚十円もだ。(笑声)

と言うわけで勤労奉仕を勘弁して貰ったそうだが、この話は勿論のことみんなが産まれるずっと前。

これから敗戦後のインフレに続くインフレで物価は上昇したから、この十円は今の幾ら位になってるかな。

え? 百万円。(笑声) そこまではいかないだろうよ。何? 千円。(笑声) こんどはガタンと安くなったな。

先生の感じじゃ五万円から十万円位って所だろう。

 

 このA子さんの住んでる海軍の官舎には、一般の人が食べられないような物でも、ふんだんに有ったそうだ。

今で言やぁ北朝鮮で、一般人民は食い物が無くて餓死しかけてる一方で、金正日を中心とする支配者階級はふんだんに贅沢出来て、旨い物をいくらでも食ってるらしいが、それと同じ。

ドイツのナチスから仕入れた「欲しがりません。勝つまでは」なんて標語を、情報局は国民に押し付け、砂糖どころか食うものさえ満足に無かった頃だ。

その時でも、軍の関係者は、氷アズキを何杯も食べられるってんだから、軍隊ってえのは豪儀な物だ。

これが、軍隊は「生き死に」に関係があるからってんなら仕方ねえが、B29やグラマンに荒らし回され、場所によっちゃあ、軍艦の艦砲射撃まで食わされてるんだから、軍隊も民間もヘチマもカッパも有ったもんじゃねえのにな。(笑声)

と言ったわけでA子さん、叱言を食わされた上に罰金まで取られたが、まあ、行かないで済むことにはなった。

 

 婦人会の会員は集まって海軍の汽艇に乗って出発して行ったが、さて、ここまで言うと、勘のいい奴はどこに行ったか見当が付くだろう。

え? コンピラサン。(笑声) 何しに行くんだよ。何? 日本が負けないように拝みに行く? (笑声)

成る程な。そうすると、さっきA子さんから取り上げた十円はオサイセンか。(笑声)

でもちょっと向きが違う。え? そうだな。広島の町だ。

 

 時は1945年8月6日、夜中の2時頃にマリアナ諸島のテニアン島を飛び立った悪魔の怪鳥、地獄の使者B29「エノラ・ゲイ号」はひたすら太平洋を飛び続けた。

改造された大きい爆弾庫に、ウラン型原子爆弾「リトル・ボーイ」を積んで。

一昨日と同じ昨日があり、昨日と同じ今朝があり、広島の町の人達はそれぞれの仕事に就き、また就こうとしていた運命の8時15分、「エノラ・ゲイ号」は何も知らずにその日を迎えた人々の頭上に襲いかかり、弱冠29歳の機長ボール・ティベッツ大佐の指がトリガーを引く。

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 後はみんなの知ってるとおり、爆心に近いところの者は、一瞬にして蒸発、そうして全身黒こげの死体、辛うじて即死しなかった者は衣服は燃え、皮膚は剥がれ垂れ下がり、幽鬼ののように水を求めてさまよう。

婦人会の人達も皆そのような目にあって、死んでしまったり、生き残っても大火傷で、間もなく死んだり、放射能のために白血病になったり悲惨な目に合ったのだろう。

「原爆の子」や「はだしのゲン」等に詳しいな。

 

 勿論A子さんは憲兵隊に捕まった。スパイの容疑だ。

事前に原子爆弾が広島に落とされるという情報を知らなければ、その日に限ってだけ病気になれるわけはない。

A子さんの家は徹底的に捜索された。暗号文や無線機が有るに違いない。

A子さんだけじゃない。A子さんの実家、友人など立ち回り先は憲兵隊に引っ張られ、家の中はいろいろと調べられた。

だけど、スパイだったと言う証拠は何にも出ない。当然だよな。

 

 一方、A子さんのご主人は南方で軍艦に乗って働いてたんだろうが、すぐに連絡が入って、これも憲兵隊に呼びつけられた。

でも、殺到するアメリカの艦隊と戦うのが先決で、映画やテレビで見るが、縛られ裸にされて天井からぶら下げられ、白状するまで竹刀でめった打ちされたなんて事はなくて済んだらしい。

間もなく8月15日、敗戦、もうスパイもヘチマもない。アメリカ軍がやって来てA子さん達は海軍の官舎から追い出されたが、多くの奥さん達は広島で死んでしまったり大怪我をしたりした。でも、それが僅かの十円で済んだ。

また、A子さんのご主人も、南方でアメリカ軍と戦ったが、物量も技術も日本とアメリカとは大違い。大勢の日本軍の兵隊が戦死したが、その中で傷一つ負わずに、無事に日本に帰って来られた。

 

 海軍の軍人の中には、ご主人は戦死、奥さんはその日に限って行った広島で原爆死と言う不幸なご夫婦が沢山いたらしい。その中でご夫婦揃って無事だったのは何とも運が強いと言っていいだろうな。

え? その後のA子さん夫婦か。 

先生がA子さんに会ったのは、敗戦後40年もしてからで、運が強かったA子さんのご主人も、病気には勝てず、60位でガンになって亡くなってしまったとの事だ。

それから、お子さん達は何人もおられて、無理しなくてもいいけれど、健康なうちは働いた方がいいだろうと言うので、A子さんは保険の外交員になった。

 

 それで、学校に保険を勧めに来て、それが身の上話に発展して「へーそうですか」「そして、ご主人はどうだったんですか」なんて聞いてるうちに「ピンポンカンコン」とチャイムが鳴って授業時間になる。で、先生は教室に行く。

だからこの保険の小母さんのA子さん、随分と時間を潰して仕事を取れなかったってわけだ。(笑声)

まことにもって、運の悪い保険屋さんだな。(笑声)

 

<脱線千一夜 第144話>   


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