福沢諭吉

 

 明治時代に福沢諭吉ってオッサンがいた。(笑声)

何? 福沢諭吉くらい知ってるって。一万円札に出てるか。じゃ、福沢諭吉ってどんな人だ? 政治家か。科学者か。小説家か。野球選手か。落語家か。(笑声) それとも「変」のつかない方の哲学者か。(笑声)

え? 大学の先生じゃないかって。慶応大学を造ったか。じゃ、慶応大学で何を教えてたんだい?

校長先生だから、なんにも教えなくていいんだって?(笑声) 成る程。こりゃ理屈が合うな。

 

 ま、福沢諭吉は端的に言うと「思想家」と言う中に入るだろう。

彼の書いた本の中には、有名な物が多くあり、「学問のすすめ」なんかその一つだな。

「天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らず」なんて言葉があるが、先生は子供の時には、何だか変なもんだと思った。

と言うのは、その頃はまさに「天皇陛下は神様です」の時代だった。(笑声)

日本人は上から、天皇陛下とその親戚の皇族、徳川とか島津とかの大名や、明治維新の功労者達の華族、かつてのサムライ達の士族、農工商の平民、それからその下に江戸時代は人間扱いされてなかった「穢多(えた)」や「非人(ひにん)」達の新平民と言った具合に、生まれる前から差別されていた。

だから新平民の者は、学校の先生になっても、反対運動が起こって追い出される。そうだな。藤村の「破戒」なんかでも有名だな。

だから福沢諭吉の「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」なんて言葉も、上っ調子に聞こえてたもんだ。

 

 福沢諭吉は確かに明治時代の大思想家だったろうが、当時、必死になって欧米諸国に追いつこうとして無理してた日本じゃ、いろんな矛盾があったのだろう。

勝海舟は江戸城の無血開城で有名だが、福沢諭吉と勝海舟とは物凄く仲が悪かったらしい。

勝海舟は咸臨丸の船長として、太平洋を横断したのだが、その時に福沢諭吉は何かの端役でこの船に乗っていた。

所が嵐に見舞われて船がメチャメチャに揺すられると、勝海舟は酷い船酔いになってしまって、船長室で唸りっぱなし、船の操縦は、たまたまそこに乗り合わせた、外国人の船員がやったそうだ。

そんなヘマを見てるから、福沢諭吉は勝海舟が以前に幕府の高官だったのに、今度は明治新政府に仕えているのを見て、何だ、たかがしれた嵐で船酔いになって、船長とは名ばかりで何も出来なかった間抜けなあの変節野郎、東京を戦火から救った恩人なんておだてられちゃってるけど、つまりは西郷に降参をしに行っただけじゃねえか。(笑声)

勝は勝で、何だ、あの福沢って言う奴は。俺が船長で咸臨丸に乗ってた時にゃ、あいつはペーペーの下っ端のガキだったんだ。(笑声) 一万円札の図柄になったからって、えれえ訳じゃねえんだぞ。(笑声)

勝と違って福沢は、直接に明治新政府に仕えていた訳じゃないが、彼の「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」と言うのは、その当時の明治新政府の富国強兵策に合わしたもんなんだな。

徳川時代の士農工商の身分制度に縛られていては、新日本の発展は期待できない。身分が低い者でも、努力すればそれなりに報いられると言った事で、お国の為にガンバレと言った事がミエミエだ。

数学の先生の家に生まれて、数学の先生になって、世界に先駆けて、つまりニュートンやライプニッツよりも前に微分積分学を発明した関孝和なんかは稀(まれ)な例だ。

いくらお父さんが出来たって息子が出来る訳じゃない。だから、ちょっと難しい事は秘伝とか言って教えない。

 

 この、身分制度くらい日本の文化の発展を阻害した物はないだろう。

だから、咸臨丸で諭吉がアメリカに行ったときに何に一番びっくりしたかって言うと、大統領制らしい。

彼は、色々と本を読んでいたし、日本に来た外国人と話をしていたので、アメリカに行っても特にびっくりした、特別に目新しいという物はなかったらしい。

でも、たまげたことがあった。それは、大統領のリンカーンの子孫が、別に政治家でもなく、当たり前の市民生活をしてることだった。

リンカーンの一族が政治権力に固執するわけでなく、その時その時で国家の長として的確な判断が出来る優秀な人間が大統領になる、この事に諭吉は感動して、それが「学問のすすめ」に繋がったんだろう。

この時に勝や福沢と一緒だった幕府の役人に何とか言うのがいたけど、こいつも大統領制には感心して、日本も大統領制にした方が良い、まず、徳川将軍を大統領にしてなんて考えたらしいが、全然、本質を見誤ってるな。

それに比べりゃ、福沢はとても頭のいい男だったらしい。

一生懸命に外国語を勉強して、ペラペラになって、自信満々になって横浜に行き、道をあるってる外人を捕まえて、話しかけたら、全然駄目。チンプンカンプン。手真似の方がよほど通じる。(笑声)

何故だ? そうだな。オランダ語と英語の違いだ。福沢が習ったのはオランダ語、横浜で一般に使われてるのは英語。

こりゃ駄目だと思った福沢は、殆ど独学で夢中になって英語を学び、二ヶ月で何とか喋る位になったそうだ。

 

 語学だけじゃない。「窮理図解」なんて科学の通俗的な啓蒙書も書いた。

科学の通俗的な啓蒙書って言うと、ガモフ博士のトムキンス物語なんかが国際的に有名だが、まさか、それ程の物じゃなくっても、当時の日本の文化水準を抜き出た物だったのだろう。

内容も面白く、猿蟹合戦で囲炉裏の中で栗がはじける事から、ボイル・シャールの法則を説明しているそうだ。

 

 ま、こんなに頭のいい人間だったが、やはり、時代の流れには中々追いつけないこともあるらしい。

自分の事になると、訳が分からなくなっちゃうらしく、娘の結婚の時には、自分の娘の婿になる男は、旧士族階級でないと駄目だと主張したそうだ。

つまり、先方がオサムライサンの出でなきゃ駄目だなんて、頭の切り替えが出来てない。

みんななんかは、結婚なんて相手と気が合えば、それでいいんだよな。親が百姓だろうと漁師だろうと天皇陛下だろうと漫才師だろうと、関係ない。(笑声)

その点じゃ、大天才の福沢よりも上だナ。少しは良い所もあるか。(笑声)

 

<脱線千一夜 第119話>


前へ戻る
メニュー
次へ進む